堀部安兵衛

お節料理が酒にあって、酒が進んで進んでしょうがありません。ご飯食べる代わりに酒飲んでます。
何て駄目な人なんだろう。何時から酒飲みになったのか分からないけど、飲んだくれはやめられません。しかも実家で酒飲み俺しかいねーから一人で飲んでます。一人で飲みに行ったりはするんだけど、実家で回りに人がいるのに、それでも一人で飲んでるのはかなり終わってると思った。
それで時代劇を見る訳ですが、やっぱあれは面白いですね。
NHK堀部安兵衛をやってたんですが、ああいうのを見て日本人は形成されていくんだと思いました。
堀部安兵衛はもとは越後の人なんですが、喧嘩安兵衛というので、江戸中で話題になって、赤穂藩の堀部家の養子に入る訳です。もともと赤穂の人ではないんですが、江戸には人が沢山いるのでこういうこともあります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/高田馬場の決闘

日本は江戸時代から江戸に集中してる国でした。
幕府からすれば、全国に配置してる藩主についての動向を知る必要があることから、藩主の子供は江戸に置いて、政権の中枢を担う人達が彼らを管理下に置いて、人となりを熟知しておくということをしました。そういうことからそれぞれの藩の江戸屋敷というのが置かれて、そこに国元から家臣を置いたりなんていうことをしてました。ということで、江戸は始まった頃から全国から全国から人が集まる大都市でした。
特に幕藩体制というものを続ける上でそれぞれの藩の有力者を江戸に縛り付けておく必要がある手前上、抱えておくべき地方の政府の人間の数も膨大な数に上り、その当時としては世界でも未曾有の大都市となった訳です。
因にその時期の江戸の人口は160万人で、ロンドンやパリなんかに比べても大きい都市でした。
なのですが、それまでは東国の中の人も住むかどうか微妙な所だった頃から、江戸時代初期はただ金を出して食うだけの膨大な胃袋的な都市でした。
食い物も嗜好品も上方から運ばれて来る町でした。そういうことから、下らねーっていう言葉が出来たりなんかしました。
なんですが、需要があれば供給も増えるということで、江戸が金を出すなら近くの産業も育つということで、関東地方にもそこそこ産業が興りという風にして発展していきました。
そういう背景があって、越後の人が赤穂に職を見つけるなんていうことも江戸時代から既に存在したのですねということです。
というところで日本史オタクのあれも終わりにしておこうかと思います。
今年も一年よろしくお願いします。