おしまいのちょっと前に

最後の最後に、これまでで一番鬱陶しくて、一番キモい自分語りをして、それを終わりに代えようと思います。
主に自分のこれまでの来し方についてなんだけど。


うちの母方の爺様は、何度かネタにしてるんだけど、お袋が小学生のときにくも膜下出血で亡くなりました。最近亡くなったお爺さんは、なので血の繋がったお爺さんでなくて、お婆さんが再婚したことでなんとなくお爺さんになった人でした。
その爺さんとか婆さんの若かった頃は丁度第二次世界大戦で日本が劣勢に立たされ始めた頃でした。
お婆さんは海軍の軍人の娘で、軍人さんの例に漏れず、曾爺さんの転勤に継ぐ転勤で内地をウロウロとしてたようです。そしてその曾爺さんというのが、その代の兵学校の白眉だったらしく、兵学校の卒業式で昭和天皇の前でロシア語で演説をして、銀時計を賜ったとかどうとか。そもそもロシア語で、というのがかなり胡散臭く、海軍はイギリスの影響が濃かったんじゃねーのと思うものの、米内光政とかそれなりにソ連に親しかったので、そういうのもいたのかもしれないとか、思ったり思わなかったり。その辺の女親と、またその女親である祖母から聞く伝聞の類いは限りなくあてにならず、そして、お袋にはあのお爺ちゃんからどうしてこんな馬鹿な曾孫が(ryとよく言われたものです。


そしてその曾爺さんの娘のお婆さんは、丁度結婚する頃に満州の女学校にいたようです。
お爺さんは、曾爺さんの海軍での部下だったみたいです。大学では土木科にいて、在学中に戦局が悪化し始めて、満州の露天掘りの炭鉱の見学と研究という名目で大陸に行ったらそのまま応集されてしまったという、今考えればちょwwwおまwwwwwみたいな感じでgdgdなまま軍人になったみたいです。この辺は彼が職業軍人であったのかは定かではありません。何しろ士官学校兵学校の区別や、参謀本部と軍令部の区別のつかない人達の言うことなので。
で、その頃の結婚のあれにありがちな感じで、自分の部下と自分の娘をくっつけて(ryみたいな感じで2人は婚約したみたいです。それはお爺さんの日記にも書いてあり、N○○*1の娘さんと結婚するように薦められてるんだけど、mjd俺で良いんっすか?みたいな記述が見られ、爺さん甘酸っぺーなと。
でも、彼らが結婚する前に戦争が終わり、お爺さんと曾爺さんはシベリアに送られ、お婆さんは、女学校の先生にソ連兵が来たら飲むようにと、青酸の入った小瓶を渡され満州の某都市から大連へ逃げていったようです。
お爺さんと曾お爺さんは比較的速い段階でシベリアから帰ってこられたようです。この辺りは、社会主義についての教育の成績の良かった順に日本に送り返され、日本に社会主義の芽を植え付ける橋頭堡的な役割を果たしたとかいう記述を見たりして、政治的に中立であると思い込んでる僕としては、びっみょーと思い、知りたいような知りたくないような微妙な気分でした。今も。


それはよくて、その後、2人は結婚したらしいです。
お爺さんは戦後のどさくさにまぎれて、高校の教員の職に就きました。っていうか、お前ちゃんと大学卒業したのという疑問は残るのですが、そこは戦後のどさくさで全てが説明されてるみたいです。
そしてお爺さんが教員をやってる間にお袋が産まれました。
まだそれでも若干どさくさしてたらしく、教員という県内での転勤が多い職は子供の教育に宜しくないと感じたらしいお爺さんは、どさくさにまぎれて県職についたようです。公務員試験は?と思うのですが、どさくさに紛れてしまったらしいです。
そして土木課に配属されました。大学も土木だったしね。
それでそうしてる間に叔母が産まれました。その頃、その一家は、某県の県庁所在地の当時は高級住宅と言われる所に住んでいました。背後に山並みの聳えて、中流域の河川のせせらぎの聞こえる、奇麗な街です。


お爺さんの日記を見ると、大陸から運良く早めに帰ってこられてしまった自分が後ろめたかったようです。
そりゃ無茶な働きかたをさせられて、周りでバタバタ友達が倒れて、しかも自分だけ一抜けたじゃ夢見も悪いってもんです。
そういうことで、戦中派の人達によく見られる、一度捨てた人生とばかりに働きまくったようです。県庁の土木課のOB会では働きっぷりがおかしかったと伝説になった。と祖母は言ってますが、死んだ人は常に最強であるという法則があるので、嘘か本当か分かりません。長生きしていて、果たして出世したかと仕事できるできないかはまた別の問題。


お爺さんは、とある県の、中部にある進学校と言われる高校の出身です。
校舎から日本でそれなりに有名な湖の見える、景色のいい所です。
その高校で、その兄弟は数学がとても良くできると言われたらしく、幾何のY、解析の△*2とか言われてたらしいです。これもまた後年新たにもっと凄い秀才が入ってくればいとも簡単に塗り替えられるのでなんとも言えません。ただし言い伝える人達の中では過去は常に美しいものだったりするみたいです。


そして時間は一気に最近になって、お袋は親父と結婚します。
お袋は父なし子になったのですが、その辺の聞くも涙、話すも涙というような話はまたあんまし関係ないのでスルー。
そして僕が産まれました。その後弟と妹が産まれました。別に兄弟の話はどうでも良い。


うちの親父は理系の仕事に就いてます。お爺さんは、生前とっても数学が得意でした。
一方で小学校の頃から僕は算数がとても苦手でした。中学に入っても、高校に入っても苦手でした。これはもうどうにもならん程苦手でした。何で二次方程式解くのに因数分解すんのかわっけわっっかんねーっすとか、切片ってどういう意味っすかとか、そのレベル。もうゆとりなんてもんじゃなく数学ができませんでした。


9歳の頃、ある夜風呂から上がって、両親が僕の前で昔話をしてました。
そのときに爺さんが数学が得意だったという話になりました。
そして親父が言いました。「お前のお爺さんは数学がとてもできた。お前は算数がそれはそれはできないけど、一応そういう血も混じってるんだし、もしかしたらできるようになるかもな。」と。
その頃は算数がとても嫌いで、得意になる以前に、数字を見て嫌だと思わないようになるとは思えませんでした。でもそのときを境に、もしかしたら俺もやれば数学出来るようになるんじゃねーのとおもうようになりました。そんなのは直ぐに忘れるんですが、中学の頃や、高校の頃も、たまに思い出したりもしてました。でも相変わらず数学はできませんでした。
高校になって、文系と理系に別れるときに、なんとなく理系を選びました。何でなのかは自分でもよく分からないです。上のようなことを覚えてたのかもしれないです。そして成績は、日本史、英語、国語の順によく、物理、化学、数学は全部これでもかってくらい成績が悪かったです。それなのによく理系に行ったもんです。
ついでにそのあたりにお爺さんが県庁の土木課に勤めてたことも知りました。


高校の頃も相変わらず成績は悪く、そこそこ理系科目の出来のいい親父と、数学が良く出来た爺さんからよくも俺みたいに数学の才能のない孫ができたもんだと嘆いたりもしました。本気で。でも爺さんが数学ができたから、俺もできるかもしれないと思っており、数学は苦手でも興味は絶やさないようにしていました。
というか、お爺さんが得意だった科目というのはどんなもんなんだろうという程度に興味は持っていました。数学の勉強は苦痛だったけど、お爺さんがそれが得意だったと聞くとどうにも避ける気にはなれませんでした。親父も数学は得意だったらしいんですが、そっちに興味が行かないのは行きてる人間には興味はねーということだったのだと思います。
そうこうするうちに数学の成績も偏差値35から45くらいには上がりました。
でもまだまだ大学受験するには及ばず、サクッと滑って浪人しました。
浪人してた頃は何だか知らないけど、数学の勉強ばっかしてました。あの頃は勘で、数学は実はおもしれーんじゃねーかと勉強をしてました。そのうち微積がそこそこ面白く感じるようになり、点数が取れるようになりました。そして成績も二度目の大学受験の頃には偏差値で55くらいになっていました。


結局大学は農学部に進学しました。これからはバイオと農業だぜと思って、そうしました。理学部の生物でも良いんじゃねーのと思うんですが、確実に受かる所というところで、そういう選択をしました。
大学に入って、教養科目的な授業で、数学と物理がありました。
大学に入ってから急に数学と物理が出来るようになりました。元々数学には興味があったので、数学っぽい雑誌はちょくちょく読んでたので、大学でやるような高校生にとっては雲を掴むような数学に抵抗がなかったことと、物理で微積を使っちゃいけない縛りがなくなったことでその辺りが逆に得意になりました。
そしてそれまで興味を持ってた生物とか化学についてはまあ置いとこうかとなりました。


あるとき、流体力学っぽい授業を受けました。水理学なんですが、それは土木のあれでして、そういや俺の爺さんは土木屋だったんだなあと思い出しました。
因縁のようなものを感じました。
同時に、うちの爺さんはこんなことをやってたんだと思いました。
その頃、お袋の実家に死蔵されていた爺さんの蔵書を親父が実家に引き揚げてきました。
帰省したときにその本をペラペラめくったら、どうやら見たことのある単語が沢山出てきました。何だかんだいって似たようなことしてるんだと思いました。益々お爺さんのことが意識に登る頻度が高くなりました。


卒研のときには何故か土木っぽい研究室に入りました。
それしか選択肢がなかった的なものもありますが、やっぱり頭の中には爺さんが土木屋だったからというのがありました。どんなもんかもっと知りたいと思い、修士まで進学しました。その頃になると大体流体関係の文献はほぼ読みこなせるようになっていました。
実家に帰って、やっぱりお爺さんの本が置いてある部屋で、ペラペラ本をめくってると、馴染みのあることが沢山書いてありました。意識してか、しないでか、似たようなことをやってました。


勢いで博士まで進学しました。
その頃に、どうやらお爺さんは大学の修了年限を短くして卒業させられ、大陸に飛ばされたことが分かりました。勉強し残して、満州に渡ったみたいです。
お爺さんが勉強しきれなかった分、俺がやってんじゃねーのかとか時々勘違いするようになりました。でも当の本人が死んじまって、死人に口無しなので、大学で十分勉強する時間がなかったことについてお爺さんがどう思ってたかとかはよく分かりません。でも孫が似たようなことしてりゃ喜ぶんじゃねーかとは思ってました。結局その勢いのまま色々と仕出かして、今に至っています。果たして学位なんて余計なもんまでとってお爺さんが喜ぶかは分かりませんが、お爺さんがどういうことに興味を持って、どういう考え方の癖を持ってたのかは何となく分かるようになりました。
自分の意志と興味の方向性でこういう選択をしたのだと思うものの、やっぱりどこかで会ったことのない爺さんはどういう人間だったのかを知りたいというので算数ばっかやってたんじゃないかとふと思うことがあります。
氏んでしまった人の人となりなんて知る術はなく、聞くのは死んだ人がいかに良い人だったかという伝聞の類いと、それこそ数十年前に撮られた、もし生きていたとしても面影がある程度の写真しかありません。だから結局その人を直接知ることはできず、頭の中でああいう人だったのかもしれないと思うのが関の山です。
でも専門とか仕事とかになると、それは自分である程度再現ができます。
どういうことに興味を持ってたのかも身を以て知ることができます。また、こと理系の人間っていうのは特異な物事の考え方をする人間が多いので、理系のお勉強を沢山することで、その人の考え方をそれなりに理解できる。かもしれません。ついでに専門まで同じなら興味の方向性もかなり限定されてきます。
そういうことで、今になってみると、半分は爺さんについて知りたかったからここまで算数ばっかやってたんじゃねーかと思います。これで供養になるかは知らねーけど。


じゃあなんでそこまで爺さんにこだわるかって、お袋の会話の節々にお爺さんの話がよく出てきて、お袋はお爺さんが大好きだったからじゃないかと思います。お爺さんが意識が消える前に最後に話したのがお袋だったというのも考えると尚更です。
なんでそんなことが分かるかって、そりゃもうお袋と一緒にお袋の実家に帰ると、道すがら思い出話の半分はお爺さんの話だからです。この場所でお父さんは、とか、お父さんは猫が苦手でとか、悪さをするとお灸を据えられてとか、そういう話を聞かされます。沢山。
そうしてお爺さんの存在は年を追うごとに大きくなっていきます。
だから、ここまでのところどうやら僕の人生のそれなりの部分は母方のお爺さんに支配されており、専門については、もしお爺さんが生きていたらお爺さんと会話が出来るくらいになるために、とかで勉強をしてたのかもしれないです。そして、そもそも数学のでき不出来のある程度の所までは才能などあまり関係なく、石の上に何年黙って座ってられるかが大きい訳で、今になってみれば俺、数学の才能ねーなーと思うのです。じゃあそんなもんを何で続けてたかって、そりゃきっと僕の後ろとか前に奴がいたからです。くたばっちまった人間にそこまで影響を受けるだなんて癪に障るので、普段はあんまし考えないようにしてるのですが、普通の人が凡そ興味を持たないようなことにここまで僕が面白いと思うのは、でもそういう経緯もあるからなんじゃないかと思うこともあります。
だって数学で来ても金にならないし、モテないし、変な人だと思われるだけで、良いことなんてあんまりないし。


そういうことで今年の春にはお爺さんの墓前に学位を取ったと報告に行こうと思います。
喜ぶかどうか知らないけど。

*1:○○の中には佐官のうちのどれかの階級が入ります。

*2:△にはお爺さんの弟さんの名前が入りますが、覚えてません。Yはうちのお爺さんです。