一昨日は西行法師の命日だったらしい

西行忌っていうらしい。西行法師は、

願わくば 花の下にて 春死なむ
  その望月の 如月の頃

とかいう歌が圧倒的に印象深くて覚えてます。俺、大概古文って苦手で苦手でしょうがなくて、特に和歌とか俳句なんて読んだって何を言いてーのかさっぱり理解できない人だったんだけど、これだけは俺でも理解できたwあと国語の先生が良い先生で色々と説明してくれた記憶がある。
確か西行法師は桜が咲く時期に花の下で死にたいと言って本当にその時期に亡くなったというのは有名なエピソードなようです。如月は2月だからこの時期なんだろうけど、旧暦だよね。良くわかんねーな。
そしてそれに憧れて真似っこする人が多かったから桜の花の下には屍が沢山あると梶井基次郎が言ったらしい。

以来、これにあこがれる人が続出。だから、梶井基次郎は「桜の樹の下には屍体がいっぱい」と喝破したのだと思う。
http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/iblog/C111252006/E20060216072036/index.html

面白いですね。
そして西行法師は、出家する前は佐藤義清(さとうのりきよ)という名前で、奥州藤原家の枝分かれとかだったようです。それで紀伊の方に領地を持ってて、それで検非違使を務めて、その後後鳥羽法皇の北面に付いたようです。北面ってば北面の武士のことです。北面の武士っていうのは院政期に上皇とか法皇が居た院庁の警備をする役割を持ってました。所謂私兵ですね。近代的な国家と軍隊が確立されるまで国家として持ってる正規軍なんていうのは殆どなかったんじゃないかと。敢えていえば、江戸幕府の旗本と御家人*1位なもんかと。日清戦争の清国軍も李鴻章の私兵だしな。そしてその後また西面の武士とかいうのも設置されました。この北面の武士西面の武士っていうのが鎌倉時代に入ってから起こる朝廷側と幕府側の争いである承久の乱の朝廷側の戦力だったりします。
佐藤義清は朝廷側に人脈を持って産まれてきたので、その世界でのし上がってくことを当然の様に志してた訳ですが、時代としては荘園制度が確立されて、その末期に達しててもう色々と税金の徴収とかも上手くいかないし、自分の領地の中でも隣の荘園と仲が悪いとかで色々と苦労があったようです。朝廷が権力を失ってく時代に朝廷側の人間として生まれてきてしまったという背景があるみたいです。何かやっぱ運が悪かったんですかね。それでもその運の悪さがなければ出世競争からドロップアウトして僧として生きて、後世に良い歌を残すっていうことはなかったのでその巡りの悪さも含めてすげーなーと思います。
また北面の武士には平清盛とかも居たようです。
あと、国語の教科書では西行法師は鎌倉時代歌人として紹介されてます。実際には鎌倉時代初期としてですかね。なのですが、西行法師のなくなった年は1190年な訳で、中学とか高校の社会科的には鎌倉幕府は1192年からっていうことなんですが、国語の教科書的には鎌倉時代は1190年以前に始まっていたということなんでしょうか。勿論こういうのは文化史的な考察を基にしてるんだろうから、鎌倉時代に特徴的な文化的な流行が既に鎌倉幕府が成立する以前からあったということなのかもしれないですけど。
そもそも鎌倉幕府自体がある日を境にいきなり始まったものではないので、何年に成立したというのも無理があるし、鎌倉時代っていうのも、鎌倉幕府が全国的な勢力になっていったのが承久の乱以後であることから考えても中々無理のある区分の仕方だなあとは思います。それでも朝廷や貴族から権力の中枢が武家政権に遷っていったというのは象徴的な出来事なんでやっぱそういう区分けは必要なんだろうな。

*1:旗本は将軍にお目通り可能で、御家人は不可。御家人株は売買されてたとかされてないとか。