文系と理系の間に流れる深くて暗い川について

算数が苦手とか、理科が苦手とかいう人が世の中には一定数いて、因数分解とか必要なのとかいう人とか、文系だからノーベル物理学賞の受賞内容なんてわからねーし、理解しようとすら思わねーとかいうNHKのアナウンサーとか、いたりして自分ができないことを棚に上げて見苦しい良い訳をして、本来は半分は初等教育の段階である程度マスターしていることが要求されているものをその様に扱うことを世間的に良しとしてしまってる状況が日本にはある訳ですが、なんなんですかね。大の大人が、自分は世の中のお勉強の半分はまったくできないし、興味もないし、理解する気もないですと発言して、しかもそれを臆面もなく表明できてしまって、恥ずかしいとも思わないし、ましてや周りの人間もそれに同調したり、共感したりこそすれ、情けないとすら思わないこともあったりするとか、一体これで教育水準の高い先進国で、政府は技術立国を標榜していますといえるんですかね、と思ってしまったりします。
一方で、分かったようなことをいう理系は、「論理的な思考」とかいう訳の分からない斬鉄剣みたいなアイテムを持ってるかのように発言し、それがあれば算数も国語もなんでも解けるよとかいう訳ですけどね、じゃあお前の持ってるその「論理的な思考」というアイテムの要素はなんなのと。言語化できないものを持ち出して、それがあれば、とか、あたかもマスターしてますよみたいな生半可なことを言ったりして文系をケムに巻く訳ですが、それ説明になってませんからと。まあ僕の高校時代に当たった算数の先公なんですけどね、あんなのに習ってりゃ本来できる筈の算数もできなくなるって物です。


じゃあ理系的な考え方ってできるのかって、別に何も特別なことはなくて、ただ単に彼らにはかれらなりの考え方の癖がある。というだけのことなのです。凡そ声高にこれは素晴らしいものですよといわなくたって、ある程度気の聞いた人なら誰もがしてるようなことを、理科とか算数といわれる対象に対して行っているだけのことなのです。
ある技法があって、それを習慣づけるということだけ、です。
まあ習慣を新たにつけるというのはそれはそれで骨が折れるものですが、所詮学問なんていうのは芸術とか、芸能とかの才能がなかった連中が手慰みにやってる程度のものだと思う訳で、大したことはないです。それをあたかも凄いものであるかのように喧伝することに今の理系といわれる人達の問題があって、そりゃ自分がしてきた苦労を考えればそうも言いたくなるだろうけどね、という程度のお話だと思うのです。
じゃあ具体的に何かって、よくあるライフハック的なエントリで挙げられてるようなことな訳です。物事の本質を見極める能力とかいいますがね、そんな漠然としたのは能力じゃないのですよ。んなブレークダウンして説明できないもんは、ほっこりしてて美味しいとか、こってりとしてるけどひつこくないとか、そんな程度のものです。
例えば、ある対象に対して、

  1. 必要条件と十分条件は何か考えてみる
  2. そこだけで通用する話なのか、別の所でも通用する話なのか考える
  3. 「少なくとも」そこでは何がいえるのか考えてみる
  4. それを細かく項目分けすると、どういうリストになるか考えてみる

とかがその一例だったりします。まあ説明すると長いので、あれなんですけど、ネタ元に使いたい記事に書いてある、ロジックを考えるっつーのは、たいていそれをしてるときに上のようなことをしてるので、同じことをしてみれば良いだけのことです。
じゃあそれを理系だけがやってるかっていうと、文系でも当然そういうことをしてる訳で、理系だけと区別ということは特にないのですよ。たまたま対象が違うだけのことと、ちょっと癖のあるものを扱ってるということと、理系が小難しそうに説明することと、文系が拒否反応を最初に示すということがあるだけのはなしで。だけのはなしというのが大いに曲者なのですが。
そういうことで、ロジックを考えるだとか、理系的な発想が苦手とかいう人は、物事をバラして考えるだとか、なんだとか、そういうことを習慣づけてみたらいいのかもしれないですが、別にそんなことしたって一円たりとも給料はあがんねーし、役に立たないので別に良いのかも。代わりに今日もバカな理系が頑張ってくれるかもしれないです。別に因数分解なんてできたって吉牛の牛丼が安くなったり、因数分解できます手当がつく訳でもないですし、仕事で必要なんていうのもごくごく一部の人だけだと思います。ただ、そういう単語があることを知ってる人が沢山いるということが重要なのではないかと思う今日この頃。

http://bizmakoto.jp/bizid/articles/0907/07/news047.html

そして、ネタ元は上野記事なんだけど、その中で、

例えば「中身もよく知らずにWindowsというツールを使っている」

とかいいますがね、ある程度ブラックボックス化しないと世の中回らないですよね、と思います。OSのソースみたり、CPUの動く理屈とか、考えないでしょ。考えたとして、それが設計と一致してるとも限らないし。
ただ、どういう思想でそういうものが作られているのか位は分かった方が良いと思いますけど。

以下余談

凡そ上記のような状況というのは、中学とか高校での教育課程がお粗末過ぎて、その上教壇に立つことは本来は許されるべきではない、教師と言われる、教員免許を持ってるだけのぱっぱらぱーが全国の中学とか高校ででけーつらしてるのが原因だと思うんです。
つまらない授業をするから、勉強はつまらないとか、思う訳で、たがが外れた大学では皆さんお遊びに精を出す訳ですよ。別にそれが悪いとは言いませんが。
大体、物理の教科書とか、公式ばっか書いてあって、それを当てはめると問題が解けますとか、数学の問題とか、いくつかパターンがあって、それを当てはめると解けますとか、それって学問とは大凡かけ離れた、何かの条件反射のためのトレーニングとしか思えないのです。残念ながら、原稿の教育課程の中での物理の教科書からは何らの機知も見出せないです。力学とかは相当ダメだけど、まだ良しとして、熱力、電磁気と進むに連れて\(^o^)/オワタ感がプンプンしまして、交流電流のときの回路のインピーダンスはこんな感じでパーツを組むとできるよとか、おめー固有値問題の説明とかねーのかよと思う訳です。確かにオームの法則から類似性を見出してやることも或は可能かもしれません。が、しかし、ニュートン以来進歩を続けてきた物理学の歩みを鑑みるに、物理の多くの法則は最終的には微小領域で成立している成立を大域に拡張して考えてみようよという極々物理学では古典的といわれる方法すらとらずに、最後に出てきた公式だけ与えるとか、バカなんですかね?バカなんだろうけどな。さながらアインシュタインといえば、E=mc2とかいう公式だけは知ってるそこらのおいちゃんおばちゃん程度のお粗末さです。本来教育機関たる高等学校で果たしてそのような教え方で良いのか、もう少しまともに教えられないものかと思うのです。相対論といえば、E=mc2なんていうのは酒飲むときの与田話程度のレベルなのです。教育の現場でそういうことをしているわけですよ。
それで良いかって、一部の教育熱心と思われる教師という職業に就いてる人達は思うかもしれないです。しかしながら、世間の多くの人は、そういうもんだからそういうもんなんだろうと思ってる訳です。即ち、物理なんていうのは公式覚えておけば良いみたいなことを考えてる人もいるかもしれないのです、物理が得意といわれる人達ですら。
そういう方々が高い点数をとって日本で一番頭が良いといわれる東京大学という大学とかに入ったとして、果たして彼らに本当に理科とか算数の素質があるのかと問うてみた場合、本来的な意味での理数系の素質があるかといえば、必ずしも是と答えられる訳でもないと思うのです。それで科学立国とは、科学が臍でお茶を沸かしてしまいます。
そして、そういう教育を受けて大学に入るとどうなるかというと、本来は算数と理科が得意だったといわれる理系というくくりに入る人達でさえ、多くが、わっけわかんねーとなる訳です。それまでの方が本来の数学とか物理学とかの進歩の軌跡とは異なる手法で物事を習っていた訳だから、それはある意味で当たり前かもしれないです。そして、多くの学生が、去年も今年も来年も再来年も、線形代数とFourier変換と、電磁気と、量子力学でバコバコ単位を落として行く訳です。複素関数まで持てば御の字、そっから先の相対論だとかいったいどうやって大学の先生は単位をバラまいているのか、内心彼らの苦労に頭が下がります。
そういうことで、理科と算数が趣味の僕としては、意味の分からない教育課程と、教員採用制度を早晩改めて頂きたいと思うものの、文部科学省とかいう役所とか、一大利権団体が人事権を握ってる職員採用制度がまかり通ってる我が国では到底無理っすねということなんですかね。しかし俺が教わってた算数とか理科の先公なんて、学部2年の頃の俺より算数も理科もできねーだろうになんで彼らは教壇に立って、偉そうなことをほざいていられたのか、今以て考えても彼らの神経の図太さには恐れ入谷の鬼子母神です。それともそういう風に教育されるのか。
いっそ俺にやらせろと思うものの、最早ニポンのチャラリーマンとして、二言目にはそれ幾らとか、予算がとか、負かりませんかとか、ぶっこいてるような人間とは異なる価値観を持ってないと勤まらない仕事なのかもしれない。人間力の違いとかなんですかね。曖昧模糊とした言葉だけど、俺にその手のものが備わってるとは思えない。